山田稔明『新しい青の時代』限定アナログ盤

活動報告

『新しい青の時代』へ寄せられた言葉たち

2018-06-21

5年前の今頃もそうでしたが、リリース前になるとわくわくしてきます。毎回誰にレコメンドコメントを頼むのかを考えるのも楽しい悩みですが、今日は2013年『新しい青の時代』リリース時にいただいた寄稿文をあらためて紹介したいと思います(杉真理さんのも再掲)。 心がぱーって開いて、山田さんの声がいろんな風景をつれてきてくれます。 晴れだって雨だって嵐だって、毎日の生活をまるごと受け止めてくれる、 楽しくて優しくて強いアルバムです。 高橋久美子(作家・作詞家) 山田稔明くんのアルバム「新しい青の時代」を聴いた。 彼の人となりを僕はそんなに知っているわけではないけれど、 逢うたびに感じる真っ直ぐな心がそのまま音に込められている様な気がした。 嘘つきの匂いがしない音楽っていいな。優しい時間をありがとう。 片寄明人(GREAT3、Chocolat & Akito) 山田君の渾身の新作、昨夜じっくり聴いた。 70年代、買ってきた洋楽のアルバムに針を落とし(アナログ盤しかない時代)、 見っけ物に出会えた時の高揚感が久々に甦ったみたいだった。 夜の闇の中、世界には僕とこのアルバムだけしか存在してないような不思議な幸福感だった。 最初にゴメスと仕事をしてから随分経つけど、山田君の「ひねくれ屋」な部分が 増々魅力を放って来たように思う、それとは判らないように。 山田君が歌う「日常」って決して淡々としてなくて、ドラマチックでファンタジーに溢れてる気がする。 もし僕が異星人だったら、歌にしたくなるような事ばかりだ。季節があって公園があって猫がいて・・・。 だから山田君の歌を聴いてると、もっと「日常」に目を凝らさなくっちゃって思う。自分が旅の途中だったって事を思い出す。 アルバム中どの曲もいいけど、僕は特に『月あかりのナイトスイミング』が好きだ。 転調巧くなったね、素晴らしいよ。 杉真理(シンガーソングライター) 最近、あまり音楽を聴かなくなった。飽きたのではなく、いま街から聴こえてくるような音楽は喜怒哀楽のどれかに特化し過ぎていて、まるで感情の起伏をせかされているような気分になるので、穏やかに暮らしたい自分の生活のBGMには合わないのだ。だからと言ってボサノバやジャズや古い音楽でお茶を濁す気分でもないので、AMラジオのお喋りばかり聴いている。そんな折、山田稔明さんのニューアルバムのタイトルが『新しい青の時代』だというニュースを届き、単純に連想してみた。「新しい」が喜と楽、「青」が哀、「時代」が怒。これは個人的な印象なので、他の方も色々な感じ方があると思うが、僕は特に「青」という言葉にひっかかった。GOMES THE HITMAN時代からソロ活動初期の山田さんが歌い続けてきた音楽は、朝や空や淡い想い出の水色、夜や海や深い悲しみの群青色、または青春。そんなふうに色で例えると紛れもなく「青」だった。それを改めて言うなんて野暮だと思ってしまったのだ。しかしいざ収録曲を聴いてみると、確かに青ではあるものの、そのどれでもない青が心に残った。そう、まさに福田利之さんが飾ったジャケットイラストの色。いわば普通の青なのだが、ぜひCDショップに行って周りにある他のCDジャケットの色と見比べて欲しい。実はとても珍しい配色だということに気付くだろう。同じように僕らの”平凡な毎日の暮らし”は、それぞれが、またその1日1日が特別で新しい。それを愛おしく想う強い気持ちがこのアルバムには詰っている。ようやく明日からまた音楽が側にいてくれる日々がはじまりそうだ。山田さん、ポチ、ありがとう。いつもありがとう。 中村佑介(イラストレーター) 五十嵐祐輔が聴いた『新しい青の時代』/文・五十嵐祐輔(fishing with john) 山田稔明氏の新しいアルバム『新しい青の時代』が手元に届きました。普段バンド編成でのライブの際は“夜の科学オーケストラ”のメンバーとして演奏に参加させていただいている身ゆえ、彼の新曲をいち早く耳に出来る立場なのですが、ここ2、3年の間に生まれた数多の新曲の中でも特に厳選された、彼のこれまでとこれからの道筋を示すような曲群がぎゅっと詰められたアルバムになっています。それこそ最新の彼の創造に触れることができるワンマンライブ“夜の科学”でも何度も披露されてきて、ファンの方には耳馴染みのあるメロディーと言葉が青い色彩にパッケージされ、部屋のステレオで、携帯音楽プレイヤーに入れて屋外で、好きな時に聴くことが出来るわけです。このことを彼の全国各地で待ち望んでいたファンの方と共にまずは喜びたい次第です。 アルバムは「どこへ向かうかを知らないならどの道を行っても同じこと」という彼史上(恐らく)一番長いタイトルの楽曲で幕を開けます。彼のスタートを急くような、ダッシュに至る助走のような空ピッキングから始まりインディアンの古い言葉からの引用だというタイトルのフレーズが高らかに歌われます。道に迷うこと、それでも前進することを肯定的に捉えたかのようなこの言葉はまさに彼のこれからの歩み方の表明とも聞こえます。ディランの如き力強いギターのストロークとブルースハープの演奏に彼のアメリカンフォークソングへの傾倒が感じられますが、歌詞にもディランの言葉の引用が見られます。これを歌う彼の視線の彼方には未開の荒野が広がっているのでしょうか。あと曲中にチャットモンチーの歌詞も一部引用されているそうなのですが、気付かれた方はいらっしゃるでしょうか。彼の家で2人でチャットモンチーのDVDを泣きながら見た思い出がよぎります(笑)。 「一角獣と新しいホライズン」は「ヒア・カムズ・ザ・サン」を思わせるギターのアルペジオフレーズがきらきらと印象的な楽曲。デモの段階ではドラムとベースが入っていなかったので、バンドでリハをする時に何度となくサウンド全体の解釈を変えたような覚えがあるのですが、今回レコーディングされたバージョンは疾走感溢れるロック色の強い仕上がりになっています。歌詞に登場する「夜明けの海のインディゴ」の澄み渡った色彩が耳を通じて視界に広がって行くようで、まさに「青の時代」というタイトルを象徴するようなイメージとなっています。曲タイトルの由来がまさか英語の教科書とは彼の口から聞くまで想像もしなかったですが、外語大卒の彼らしいイマジネーションとも言えそうです。 「光と水の新しい関係」は旅の途上で日々を俯瞰した叙情的な楽曲です。「僕はもう行かなくちゃ」というフレーズは旅先を後にし、また新たな旅先へというような意味合いだと思うのですが、震災後に耳にした時には「変貌してしまったこの日々を再び歩んで行かなくちゃ」という意味合いに聞こえ、とても心動かされたことを覚えています。歌詞に登場する「唐紅」という鮮明な色彩が聞く者の心を灯すあかりのようで、青のイメージの中に一点の温かみをもたらしています。 「予感」はいつだったかライブの前に彼が「こんな曲作ったんだけど」とポケットから手紙を取り出すかのようにさり気なく持って来た小作品といった趣きの楽曲で、その後すんなりバンドのレパートリーに収まりました。アルバムバージョンではtico moon友加さんのハープや上野さんのフルートによるクラシカルなアレンジも美しいですが、安宅さんがクラリネットを吹いているそうで(彼のクラリネットデビュー音源となるそう)彼のマルチプレイヤーっぷりも存分に堪能出来る楽曲となっています。こんな歌のような優しい手紙を差し出したい&差し出されたいものです。 「平凡な毎日の暮らし」は我々の繰り返される日常を肯定的に捉えた生活讃歌とも言える楽曲です。アルバムの後半へと勢いをつけてくれます。この曲はデモの段階でほぼこのアレンジに完成されておりました。ライブで演奏する時全員がドライブする瞬間があって気持ち良いのです。とてもライブ映えする曲です。ベースのエビちゃんが不在だったライブ時に私が代わりにベースを弾いたのですが、その時の楽しさをいつも思い出します(笑)。全体夢見心地でピースフルな歌詞と思いきや「抱きしめる痛み」というフレーズが最後にぴりっと登場します。 「月あかりのナイトスイミング」はデモの段階ではラフなバンドっぽいイメージだったのでライブでもそう演奏していたのですが(個人的には少年たちの行進曲というイメージでした)、今回アルバムでは佐々木真里さんによる幻想的で美しいピアノアレンジが全面に打ち出されています。「夏の日の幻」が昼間ならこちらは夜でしょうか。冒頭の夕焼けの赤から夜の青への光のグラデーションが後の「光の葡萄」へと引き継がれて行きます。タイトルは彼が敬愛するバンドR.E.Mの曲名から由来しているという豆知識はファンの方ならご存知でしょう。 「やまびこの詩」は彼がこのところ趣味にしているという「ロープウェイでの山登り」をきっかけに生まれた曲だそう。タイトルは彼曰く「さだまさしっぽい」とのことですが、この2010年代の世にさだセンスを持ち込んで違和感がないというのも山田マジックの成せる技でしょうか。サビでそれこそやまびこのように歌声を追いかけるくだりがあるのですが、今回はイノトモさんが母性溢れる澄んだコーラスを聞かせてくれています。ライブでは毎回ここをお客さんに歌わせているのですが、山田氏が指導してお客さんが歌うという光景がまるで音楽の授業のように繰り広げられ、その優秀な生徒っぷりを見ながら毎回感心しておりました。今度からは自宅で、携帯プレイヤーを耳に屋外で、このアルバムを聞いている人がそれぞれ追っかけコーラスをすることでしょう。アルバムリスナーの人数分だけやまびこが響くと想像すると爽快な気持ちになりますね。ちなみにこの曲では私もギターをそっと歌に添えさせて貰っています。 「光の葡萄」はライブでも定番となっている近年の彼の代表曲ともいえる楽曲です。これまでの楽曲にもそこかしこに散りばめられてきた我々の日常に沿う光の色彩の描写(例えば青と赤と緑のまばたき)を「葡萄のようだ」と山田氏はある夜ドライブしながら発見したそうです。彼のブログを読んでいると東京の街を車で移動している様子が言葉や写真で多く語られているのがわかります。そこにはよく夜の街の灯りが淡く映っています。人々の暮らしを象徴する街の光を葡萄の房に見立てた彼の視点が冴えた聖なる日常讃歌と言えそうです。Hicksville中森さんのギターが曲にドライブ感を与えています。 「日向の猫」は彼の愛猫ポチが日向で佇む姿を見ながら「幸せとはこういうことではないか」とふと思ったところから生まれたというピースフルなワルツです。ポチのキュートさは彼の口から何度も語られているし、彼のインスタグラムはほとんどポチの写真集と化しているほどなのでファンの方ならご存知でしょう。物販でポチのポストカードを売るという暴挙(?)に出て喜ばれるのも彼ならではです。この曲のサビで「ラララ」と歌われるコーラス部分はこちらもライブでお客さんに歌わせている「音楽の授業シリーズ(私が命名)」になります。今回のアルバムでは全国各地でお客さんのコーラスを録音しそれをミックスして収録してあるそうです。ライブでコーラスに参加したことがある方は「あ、俺の声!」「わ、私の声!」と思いながら聞いてみて下さい。ちなみに歌詞に登場する「氷の窓に誰かが描いた一筆書きのチャーリーブラウン」というフレーズを聞いて個人的に思い出すのは、数年前に高円寺のマーブルトロンという会場で行われた彼のワンマンライブを見に行った際、最後に彼が突然背後のカーテンを開けて真冬の冷たい空気で曇った窓ガラスに指でイラストとメッセージをさらさらとそれこそ一筆書きのように描いたという光景で、ただの窓ガラスがメッセージボードとして立ち上がったその様子に「おお!」とひどく感激したのを覚えています。最初渡されたこの曲の譜面にはそれこそ彼が一筆書きしたと思われるチャーリーブラウンのイラストが添えられていました。彼は「実はチャーリーブラウンは一筆書きじゃ描けないんだけどね」と言っておりましたが。猫を飼ってらっしゃる方はこの曲をご自分の猫のテーマソングにすると良いでしょう。 アルバムラストを飾るのはこれもライブでのラスト曲の定番となりつつある「ハミングバード」です。この曲もライブで演奏する際、バンドがドライブする瞬間が多々あり盛り上がるのです。いつもこの曲の途中で「ああもうライブも終わりか」と名残惜しいような気持ちになります。アンケートでもこの曲をフェイバリットに挙げる人が多く、初の音源化を喜ぶ人は多いのではないでしょうか。アルバムを締めくくるに相応しい壮大な楽曲です。 さらに今回は最後に、先立ってシングルで配信されていた「あさってくらいの未来」がボーナストラックとして収録される運びとなりました。ライブで言えばアンコールのようなものでしょうか。実は山田氏から「この曲がアルバムに入るとトゥーマッチなので外そうと思うんだけどどう思う?」と相談されたので「これは名曲なのでアルバムに刻んでおいた方が良いですよ」と答えたところ、結果としてボートラ扱いで入るということになったわけです。この曲のアルバム収録を望んでいた方は「五十嵐の後押しで入ることになった」という事実を頭の片隅で思い出していただけると幸いです(笑)。映画のために依頼されて作ったという経緯があるせいかアルバムのムードとは少々違うテイストとは言え、他の楽曲群と同じ時期に紡がれた歌として記録されておくべきではないかと思ったのです。「あさってくらいの未来」や「5センチくらいの些細な兆し」への目線はそのまま日向に佇むポチを見る目であり、街の光の葡萄に人々の暮らしを想う目線です。この曲をふとした時に鳴らしてまた明日へもう一歩踏み出す勇気を得るきっかけにする人が多くいることを想像します。そしてまたアルバムの1曲目へ巡回すれば完璧です。 改めてアルバムの収録曲を聞き返してもう40代に突入しようというおじさん(失礼)とは思えぬ瑞々しい少年性を持った歌声と言葉に「永遠の青二才」なるフレーズを思い浮かべたのですが、彼の地に足の着いた青臭さは紛れもない強固な魅力なのであり、「新しい青の時代」とはそんな青さを持ったまま歩み続けるという彼の意思表明としても聞こえ、よく命名したものだと思います。 そんな彼のここ数年の集大成ともいえる内容の傑作アルバムです。ぜひ何度も何度も繰り返し聴いて下さい。 五十嵐祐輔(fishing with john/草とten shoes)